社会保障費と国家による思想介入の危惧 

2018年2月4日 22時31分 | カテゴリー: 活動報告

前回、地域共生社会について国の「我ごと・丸ごと地域共生社会」の地域丸投げの危惧を書きました。この問題を深く掘り下げると、別の視点からは国家による国民の精神論の改革によって、社会保障の在り方そのものを後退させたいという思惑が浮かび上がります。
例えば、自民党の改憲草案では、憲法前文の中に「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」と述べられており、互助の思想を強調していることが見えてきます。社会保障の公的責任を後退させ、家族扶養主義へと回帰する、こうした考え方は国民一人一人の尊厳を憲法が国家の責務として保障する基本的人権の保障をないがしろにさせるのではなないでしょうか?
家族の中で責任を負う、それができなければ地域の中で解決すべきという社会保障の意識変革を国民に根づかせたいとする意図を感ぜずにはいられません。
子育てでも同様です。教育基本法が2006年改正されましたが、教育の目標と共に、「家庭教育」を国民の徳目として求めています。自民党が議員立法で成立をめざしている「家庭教育支援法」も同様です。子どもの問題は近年、虐待、貧困、いじめ、不登校、学力格差など様々な問題がありますが、この法案はその具体的解決策の支援法というよりは、家庭に公権力を介入させ、精神論を強調している点が最も問題です。家庭教育支援法の第2条 家庭教育は、父母その他の保護者の第一義的責任において、・・で始まり、何度となく「父母その他の保護者」という文言が出てきます。親ではなく、父母による家庭であること、子どもの責任を負うのは親、と家庭像を描くことでシングル世帯への社会保障費を抑制したいという意図を感じます。家庭の理想像を設定することによって、その立場から離れた状況の子どもが苦悩し、また疎外感を抱かせることは、多様性を認める社会と真っ向から対立します。
子育て支援は、当然に必要です。しかし近年、子どもの育つ環境は多様であって、家庭は個人の尊厳によるものであり、あるべき理想像を植え付ける精神的介入は断じて許されません。家庭や地域の教育力が弱体化していて、ネグレクト・虐待をはじめ様々な問題があるのであれば、行政、学校、地域、NPOなどの協働により解決すべきであって、精神論が解決の具現策ではないことは明らかです。